中森明菜のいない時代

 
昨日、日本テレビで「音楽の日」という番組が放送されていた。半日ほどの放送時間で出演陣も豪華だったようだ。しかしながら、あまり日本のヒットチャートの音楽を聴かない私は、殆ど見ていない。100パーセント、年を取ったことが、理由だろうが、彼らの曲はどれも同じように聞こえてしまう。
 (ちなみにたまたま矢沢永吉が出演していた箇所は視聴した。永ちゃんは相変わらずカッコいい)

 ここ最近、中森明菜ばかりを聞いている。彼女の存在は、日本歌謡史上、唯一無二であり、おそらく今後も彼女のような歌手は二度と出てこないだろう。
 ふとしたことで、代表曲をデビュー順に聞いたが、まずとにかく曲自体が素晴らしい。
 松田聖子のユーミン、財津和男、大瀧詠一のような所謂、王道ポップスの作家陣と比べて、中森明菜の作家陣は、井上陽水、玉置浩二、来生たかおという、非常に個性的なメンツが彼女に楽曲を提供している。コードは、マイナーを基調としている。歌詞は刹那的だ。
最近になって80年代の楽曲が改めて再評価されているが、この80年代の楽曲群でも彼女の曲達は突出して素晴らしい。

 そして惹かれるのは、当然、彼女の歌の上手さ、である。youtubeなどで動画が色々と落ちているが、あまり音質の良くない動画を視聴しても、彼女の歌の上手さを充分感じることができる。
 特に、「十戒」から「TATOO」あたりまでは本当に上手い。およそのアイドルの歌唱は、高い音域と声量を強調しがちだが、「少女A」あたりから彼女の低音域と声量を強調し始めている。そして、その歌唱法が、先程の一流ミュージシャンの作品群と見事にマッチしている。

 またルックスは言わずもがな、である。当たり前だが、めちゃくちゃ可愛い。そしてそれだけではなく、彼女の歌の表情は、曲に応じて、その表情を変える。しっかりと自分の提供曲を自分のものにしている。曲の良さよりも、彼女の表現力のほうが優っている。

 時代を経るごとに、彼女の表情は大きく変化していく。しかし、報道でもされていたように、プライベートでゴタゴタがあり、だんだんと憂いの表情が大きくなる。「難破船」のパフォーマンスなどはその際たるものだ。
 そしてその後しばらくして、彼女は長い時間をかけて少しずつ表舞台に立つ機会が無くなっていく。現在は、数年間、メデイアに出ていない。

 1980年代中盤は、まだ当然、ネットもなく、情報源といえば、新聞、テレビ、雑誌ぐらいのものだった。そして、その当時、出演していたアイドル、歌手などは、本当に「変人」ばかりだったように思える。
 魑魅魍魎の社会に適応できない一本ネジの取れた人々しか、その当時のテレビでは生きていけなかっただろう。そして当然、彼ら、彼女らの才能は、何かにコーティングされない原石のまま、世の中に出されていった。

 現在は情報がなんでも手に入れることが時代だ。バラィティの発言ひとつで、世の中に叩かれ、ツィッターで十数文字を発しただけで、ニュースになる。
コンプライアンスを重視するあまりか、メデイアには、「変人」が登場する機会がなくなり、画一化された絶対公約数の高いものが売れる時代になっている。

 しかしながら、我々が本当に見たいものや聴きたいものは、やはりその発する人独自のオリジナルなものだ。彼らの立ち振る舞いやストーリーに共感し、熱狂したい欲求が根源的にあるように思える。
 中森明菜の動画をデビューから時間順に視聴していくと、なんとも言えない、感情を抱いてしまう。そのへんのドキュメンタリーよりも、よっぽどリアルな少女から大人の成長、迷いが見てとれる。

 これからの世の中は、コンテンツが重視される時代になるそうだ。この数十年で大きく変わったことは、誰しもが発信できるようになったことだ。そのなかで、我々を熱狂させるのは、もはやテレビではないかもしれない。
 良質な「変人」が、自由に発信でき、彼らの新たなストーリーが人々を感動させる時代になりつつある。

 そのなかできっと、「本物」が世の中を席巻していくに違いない。
 今では、米津玄師などがそうかもしれない。
 
 新しい令和という時代に中森明菜のような存在が出てくることを期待したい。