現在も首都を守り続ける徳川家康の治水工事

 日本に甚大な被害をもたらした台風19号。関東地区は当日は激しい雨が丸一日降り続いていた。各河川のいくつかは氾濫し、多くのかたが被災されてしまった。被災されかたは、お見舞い申し上げます。

 さて、首都圏でも多摩川周辺の住宅が床下浸水したり、川崎周辺でも被害に遭われたかたがいるが、隅田川や荒川、多摩川が大決壊することはなく(ギリギリ持ち堪えた)、台風の被害は、最悪の想定以下だったといえる。とはいえ、当日は、本当にこの首都圏の主要な河川が大決壊する可能性はあったし、あれだけ雨が降り続いてよく決壊しなかったな、と思う。仮にたとえば荒川が決壊していれば、その被害は計り知れないだろう。

 ちなみに東京では、河川の氾濫を防ぐためにおよそ300年前に大治水工事を実施している。
 
 以前東京が江戸だった時代、そう徳川家康が豊臣秀吉が江戸に領地替えを命じられた当時、江戸は大湿地帯だった。新橋のあたりは、まだ埋め立てられておらず、武蔵野の平野と水気の多い土地が一面に広がっていた。
 今でこそ、東京は世界を代表する都市だが、当時は誰ひとりとしてこの土地に魅力を感じなかった。理由は、「洪水」の多さである。

 当時は、利根川の水がそのまま江戸の各水流に流れ込んでいた。大量の水流が無秩序に各支流に流されていくと、仮に大雨が降った場合は、ほぼその支流が氾濫する。そして水捌けが悪いので、土地はなかなか肥えていかない。当時はこうした水廻りが悪い、土地だった。
 そんななか、家康は、利根川に対して日本史上に残る大治水工事を実施する。最初の工事は1594年から始まり、その後備前堤の開発、利根川、渡瀬川の河川整理が行われていく。
 当然、家康一代で終わるわけではなく、それからおよそ300年に渡り、利根川の治水工事は実施され続ける。現在は、利根川の本流の河口は我孫子方面だ。まさに大きな川を人間の手によって「曲げた」一大事業として位置付けられる。

 また多摩川に関しても、室町時代か段階的に用水路などの整備が行われた。(玉川上水、府中用水)など。しかし国を挙げての一代治水工事は、およそ100年前である。多摩川も洪水の多い地域ではあったが、武蔵野の水田用の貴重な資源として位置づけられていた。

 治水工事と人間の歴史との関係性は非常に強いものがある。たとえば文明が発達する場所は、河川周辺によるところが多いように、人々の生活資源である水という資源が豊かなところは、文明が栄えやすい。しかしながら、洪水などの災害も諸刃の刃として、忘れた頃に襲ってくる。この戦いの歴史こそがある意味で人類の歴史でもある。
 ちなみに日本の各河川の治水が発達したのは、戦国時代だといわれる。農地や肥沃な土地は、生きていくうえで最優先のものだった。せっかく手に入れた土地を洪水などで壊されては堪らない、そうした思いから、各地域で治水工事が行われていった。現在の日本のインフラ整備は、先人たちの汗と血の結晶であることを忘れてはいけない。

 
 しかしながら、人間の叡智を結集させたこの治水工事が現在では通用しなくなっている。想定にはない大雨、台風が発生し、我々の生活を脅かしている。理由は温暖化による、想定外の天災が近年頻繁しているからだろう。
 我々のインフラ整備は、今後、こうした「あり得ない」災害を想定し続けなければいけない。たとえそれが我々の想像を超えた災害であっても、歩みを止めることはできない。