落語があれば生きていける

 私は普段の移動中は、イヤホンで何かを聴いていることが多い。その何か、というのは音楽だけではなく、落語、講演も含まれる。
  普段は、音楽よりも落語を聴いている割合のほうが高いだろう。
 また夜眠る前も、週の半分ぐらいは落語を聴きながら眠る。(殆どマクラのところで眠ってしまうが)
  要は落語がかなり好きである。この究極の一人芸に心底惚れている。

 また生きていくなかで、個人的にかなり辛い時期やキツイ時期というものが誰にでもあると思うが、私も少ないながらもあり、その時は、年から年中、落語を聴いていた。当時はおそらく誰かと話している以外は、全て落語を流していた。人から見たら相当な変わり者のように見えていたのかもしれない。

 では、何故そこまで落語に惹かれているかというと、大きくわけて2つある。

 まずひとつめは、あの言葉のリズムや間やテンポが心地よいのかもしれない。特段、言葉数としては多くないネタでも、間の使いかたでその空間が濃密になる。また舞台の息遣いや一体感なども好きなのかもしれない。そこには笑いの空間があり、息を飲む話が満ち溢れている。

 そしてふたつめは、これが一番大きいのだが、登場人物にロクな人間がいないことかもしれない。ほぼ100パーセント、現代でいうダメな人間の馬鹿話で終止している。

 飲む、打つ、買うという、言葉があるように人は欲望に流されやすいものだ。そして、それを律するのが、人間としての成長なのかもしれない。しかし、そうはいいながらも、酒を飲んでしまえば失敗もするし、色恋沙汰にハマってトラブルになってしまうし、博打で張り始めると際限がなくなってしまう。
 そのような人間の根源的なダメさを否定して、見えないようにしている物語はとても多い。当然、社会でも飲む、打つ、買うは断罪され、そこに笑いや許しが無くなっているのが現状だ。

 そんななか、落語は、このダメな人間の業を笑い飛ばしてくれる。「人は、そんなもんなんだ」というベーシックなところから物語を発展させている。律することをしても、欲望に流されてしまい、そしてそれにハマり、しかしそれが他人から見ると、間抜けで、バカバカしい。人生は、所詮はそんな冗談みたいな話に満ちていて、人は、ダメながらも愛おしい存在である。
 そんな気持ちにさせてくれる落語を聴いていると、自分の心持ちが軽くなるのかもしれない。
 是非、お時間のある時に寄席でもいって、落語に触れてみてほしい。


 ちなみに、私の好きな噺家さんは、立川談志師匠、柳家小さん師匠。
 マイベスト題目は柳家小さん師匠の「粗忽長屋」。そして談志師匠の「芝浜」、立川志らく師匠の「死神」あたりだ。

笑いの効能
諸行無常を感じる映画