タランティーノに見るヒトとしての生き物

映画監督で大好きなのは、タランティーノだ。レザホアドッグスが公開された時からだから、中学生時代からずっと特別な存在である。
ストーリーやサントラの格好良さもさることながら、やはりあの独特の空気感だろう。
だいたい、殆どの作品において、登場人物はぼぼ間抜けな人間が多い。
パルプフィクションでは、車中で銃が暴発して、車内が血まみれになり、それをパニックになりながら掃除する。間抜けである。
拷問をする人間も、何処かで間抜けでそれが逆に狂気を帯びている。

彼のドライな映画を見ていると、つくづく人間の無常を感じることができる。
人はあくまで生き物であり、脳天に銃を突きつけ発泡すると、当然ながらコロリと死ぬ。
先程までギャーギャーと喚いていた男がたった一発でモノと化す。
この辺りのドライさが、彼の映画が独特な世界観たる所以だろう。
これに近いのが、初期の北野武の映画だ。呆気ない生死を映像の構図と間で表現ができる監督は極端に少ない。

ドライさで思い出したが、割と日常生活でも呆気なく終わることが多い。
例えば仕事であり、夫婦関係であれ、その時はドロドロとしているのだが、終わってみれば実に味気なく呆気ない。
始まりがあれば必ず終わりがあるのだが、人間はうっかりしていて、つい永遠に物事が続くと考えがちだ。その局面の時に、はじめて時間は有限だと気付いてしまう。
あくまで人間は、ひとつの生き物であるということを忘れないようにしないといけない。
見る人が見ると、全くポジティブではない彼の映画も、見方を変えると時にポジティブに見える。
人は死ぬもので時間は有限だからこそ、目の前を集中しなければ、と乾いた銃声を聞きながら思うのだ。