超絶にハードルが高い地方創生に関して

  先日、仕事の関係でとある県に行き、各市町村の官庁のかたとお話しをしてきた。

 どの地方もやはり空き家の問題や、人口減少の問題は大きいようだ。この空き家問題などはだんだんと社会問題になりつつあり、各自治体も喫緊に取り組んでいかなければいけない。

 と、いいながらも私の実家、愛媛県八幡浜市もそんな過疎化が進んでいる街のひとつだ。
 ピーク時は、5万人弱いた人口も今は1万数千人になっている。


  年に一回帰省するかしないか、である。当時は夏の祭りなどは、人が混雑して歩けなかった。通勤時間は学生の自転車で通りは、混雑し、また小学校のクラスは3クラスあり、およそ600名程度の学校の運動会は、かなり活況であった。
 商店街には、本屋、時計屋、カバン屋などが並んでおり、買い物はほぼその商店街だった。
 しかし、今では人口減少のため、クラスは少なくなり、街も以前のような活況を取り戻してはいない。

 とは言え、そうは言いながらもその街でUターン帰省をしたり、また地元に残り、地域活動を盛り上げてくれている同世代のかたもたくさんいて、とても尊敬の念で見ている。彼らの活動のおかげで、新たな産業や取り組みも始まっている。

 世間的には、地方をどうするかという議論が多いが、この施策を考えれば考えるほど。本当に難しい。有識者も頭を悩ますレベルだ。

 ちなみに私の住んでいた町内は、10戸程度の戸建てが集まっているプチ集落だが、7割がたが空き家になっている。


 昔は元気の良かった近所のおばちゃんも、今では、腰を曲げ入退院を繰り返すようになり、町内全体は、閑散としている。


 このようなことは、何も私の生まれた地域だけではない。今や、日本全国に見られる光景だ。過剰な首都一極集中が招いたことである。

 各地方自治体をお伺いしても、本質の問題はやはり共通のものがある。かなり根っこの部分の問題は大きいのだろう。

 地方のことを考える時に、難しいのは、総合的な戦略だけではない、心情的な部分も大きくあることだ。

 例えば上記のような私の町内に、いきなり複数の若い家族が大挙したら、たまに帰省する私は、若干の抵抗感を抱く可能性がある。しかしながら数年、もしくは十数年後には、我が家も空き家の仲間入りをすることになる。
  現状の問題と未来の問題が感情のノスタルジーというフィルターで混沌としているのかもしれない。

 そんなことを思いながら、各自治体を回っていた時にふと思ったことがある。

 地方を考えるのと、故郷を考えるのは全く違うということを前提にしなければ議論は進まないのではないかということだ。

 故郷というフィルターを通して見た普通の公園は、とても貴重なものである。
 また海の景色や山の景色も、それぞれ忘れがたい思い出が詰まっている。
 このような故郷の感情を基に何をすべきなのかを考えることと、地方創生として施策を打ち出していくことは、似ているようで全く違うように感じる。

 マーケティング的にはターゲットの違いというところであろうか。
  たとえば、都会生まれの20代のかたと田舎生まれの50代後半のかたとは、地方に対する感覚も違うであろう。そこに対し、統一的な施策というものも存在し得ない。都会→田舎、故郷→東京→故郷、などいろいろな対象を考えなければいけない。
 
 未だに明確な答えがないこの問題に対して、まず最初に考えるべきなのは、それぞれの個人の故郷のあり方の定義なのかもしれない。





 空き家管理について


都会で生きることについて