藤田信雄という人をどれだけの日本人が知っているだろうか?先日、テレビ番組で紹介されてその存在を知った人もいるかもしれないが、ほとんどの日本人は彼の存在を知らない。しかしアメリカでは彼はとても有名な人である。
1942年第二次世界大戦のなか、当時29歳だった藤田は潜水艦に搭載された偵察機のパイロットだった。とても優秀な飛行士だったらしい。その年の夏、一時帰還予定だった藤田に軍令部から呼び出しがかかる。
重大な国家機密として、司令部はアメリカのドーリットルが本土を空襲したことによる復讐として、アメリカ本土を爆撃するよう藤田に命令した。しかも爆撃のための飛行機は藤田の一機のみ。一機でアメリカ本土に向かい、山林に焼夷弾を落とし山火事を起こすという作戦だ。アメリカの都市部では敵の包囲網に引っかかり見つかる可能性が高いため、オレゴン州ブルッキングス市の山林に司令部は狙いを定めた。
1942年9月7日、焼夷弾を搭載した藤田の戦闘機はアメリカに向かった。彼は出発前に家族に遺書を書き、もしアメリカ側に見つかった場合は自決する予定だった。
彼ともう一名の二人は相手側に見つかることもなく、予定通りアメリカに到着し爆撃を行った。戦果の確認をする時間もなかったが、たしかに2発、山林に焼夷弾を落とした。
無事帰還した藤田は、軍から戦果の報告を聞かされることになった。軍はサンフランシスコ放送により、数人の死傷者と相当の被害を与えたとの報道があったことを藤田に伝えた。
しかし藤田が行ったアメリカへの本土爆撃は、戦局に何ら影響を与えることができなかった。アメリカは日本本土に爆撃を開始、1945年4月沖縄の上陸も許した。追い詰められた日本は神風特攻を行い、決死の反撃にでる。
当時、藤田は茨城県の航空隊で若手のパイロットの育成に当たっていた。しかし彼の教え子たちは次々と特攻隊に志願し、命を落としていく。彼は自責の念にかられ、自分自身も特攻に志願するが、その直後、1945年8月15日終戦を迎える。
藤田のその時の心境が手記に残されている
「今の今まで特攻隊として、いかに死すべきかと考えつづけてきたのに、ついに生き残ってしまった」
その後、藤田は金物商を営み、生活をしていく。その間、家族には戦争の話や爆撃の話はいっさいしなかったという。また航空会社への就職の誘いも全て断っていたという。
そんな平凡な生活を行なっていた藤田に1962年、ある人物から呼び出しがかかる。当時の官房長官の大平正芳だ。
赤坂の料亭に藤田を呼び出した大平正芳は、彼に以下のような趣旨を伝えた。
・爆撃したアメリカのブルッキングス市が藤田を招待したい。
・しかし、もし行く場合は、政府は何の関与もできない。
まだ終戦から間もないため、アメリカの渡航も許可されておらず、お互いにシコリの残る関係だったためあくまで政府は無関与だという意思を伝えた。
その後、ブルッキングス市から家族も共にと、自宅に招待状が届く。
藤田は、実際の被害状況がどうだったのか、また元軍人として、戦死した仲間のために渡米すると決心する。そこには死という覚悟も受け入れた決心だった。藤田の家族も同伴で渡米した。
1962年5月専用のチャーター機で藤田一家は、アメリカのオレゴン州ブルッキングス市に向かった。
しかし藤田の予想と反して、そこに待ち受けていたのは、歓迎するブルッキングスの市民の大歓迎だった。
毎年5月にブルッキングス市ではアゼリア祭りという祭りが開催される。その年の特別ゲストとして、彼は招待された。たった一機で勇敢にアメリカを攻撃した彼を賞賛しての招待だった。しかしなかには、まだ当時の戦争を忘れられないアメリカ人も多かったので反対の声も上がっていたが、軍人同士で解決し合い募金を出し合ったという。
そして、藤田は爆撃時の被害状況を聞くことになる。
被害は、木一本だけだった。
山林の空気が湿っていたのか、威力が弱かったのかわからないが、いずれにしても彼は誰一人傷付けてはいなかった。
彼の手記からの抜粋
「なぜ、こんなに人情味の溢れる人たちと戦争しなければならなかったのかという悔い。それにもまして私の米本土爆撃は何だったのか」
藤田は式典のなかでブルッキングスの市民に以下のように発言する。
「私はこう思うのです。もし私がこんな風に皆さんと出会っていれば、こんな風に皆さんのことを知っていれば、そして私たちが互いを良く知る友達であれば、そもそも戦争は起こらなかったのではないか、そう思うのです。そこで、私は約束します。日本の事をあなたがたに知ってもらうためにいつの日か必ずブルッキンス市の子供や学生たちを、必ず私の手で日本に招待したいと思います」
その後、藤田は彼らを招待するために壮絶な苦労をする。
軌道に乗った金物商を息子に渡し、招待の準備をしようとした矢先、その会社は潰れてしまい無一文になる。
そこで彼は友人の工場に就職し働き続ける。金はいっさい使わず、服は下着しか買わず、作業着のままで生活していた。そこでコツコツと貯めた100万円で1984年、遂に藤田はブルッキングス市から三名の女学生を招待する。
彼の爆撃から43年後、1985年7月、つくば万博の開催に合わせ藤田は女学生を招待する。
「私の戦後はこれでやっと終わります」
その後も藤田とブルッキングス市の交流は続いた。藤田は三度ブルッキングス市を訪問した。日米平和の活動を行い続ける。
1997年、ブルッキングス市から藤田へ名誉市民を授与することが決まった。本人に伝えるため市長が日本に来日した当日、くしくも彼は亡くなった。
その死の悲しみは、アメリカのニューヨークタイムスも大きく報じた。
彼は晩年の日記にこんな言葉を残している。
「宗教、人種、異国すべてを話し合いで解決する世の中が早く来ることを期待する。人は心が通じれば強い絆にて続く。そこには人種や敵味方や恨みも憎しみもない。心からお互いの幸を祈りたい」
彼の遺灰は、ブルッキングス市の爆撃した場所に撒かれた。
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